2004/04/07 up
あるところに一匹の猫がいた。
その猫の体は墨を被った様な黒色で、体に一箇所、背中の真ん中にだけ白い毛が丸く生えていた。この丸い点は猫が夕闇を走ったときには宙に浮かんで見えて、人間に見られるとやれ人魂だと騒がれた。
猫は人間達が自分を見て驚き騒ぐ様が面白く、たまに日の落ちるころになると人間の住む平屋の屋根を音もなく走ってみたりした。しかし、どんなに闇夜で騒がれていても、陽の下ではありふれた何処にでもいる一匹の猫であった。
この猫には飼い主と呼べるものがなく、日々の食べ物は近くにいる人間にねだった。
甘えた声でねだると裕福な人間ならばすぐに何か持ってくる。別に飼われなくとも苦労はなかったため、猫は他の飼い猫を見ては、あいつらは何故俺のように生きないのだと思っていた。
ある時、猫はみすぼらしい平屋に寄ろうとし、中から錆びて汚らしい刃物を持った男が出て追いかけてきて、あわや自分が食い物にされると全速力で逃げ出した。必死で走った猫は、大きな屋敷の中に迷い込んだ。しかし猫は別に困りはしない。
ちょうどいい、この裕福そうな家の主人に食べ物をもらおうと、人を探してうろついた。
しばらく後、猫は屋敷の中庭で鯉に餌を投げ与えている、太った人間を見つけ、近づいていくと可愛くにゃあんと鳴いた。
それを見た男は、猫には理解できない人間たちの言葉をしゃべると、手招きをした。
猫がさて何をくれるのかなと近づくと、男は手に持っていた袋から先ほど鯉にやっていた餌を出した。
猫は腹を立てた。この人間は猫という物をまるで分かっていない。何故魚と同じ物を食べなくてはいけないのだ。
猫がぷいとそっぽを向くと、男は何を思ったかますます餌を持った手を近づけて、無理矢理口に押し込もうとする。
これはたまらないと猫は男の手に噛みついた。
男は飛び上がり、逆上すると猫の首根っこをつかんで歩き出し、倉の中でふたが開いていた古い酒樽に猫を放り込んだ。
酒樽で足掻く猫を見て満足し、男が去った後、猫はこの樽の中の妙な水を大量に飲みながらもひとしきりもがき、なんとか樽から出た。
やれやれ酷い目にあった。もう金輪際こんな所には来ないぞ、と猫が屋敷を出ようとすると、入り口の所にいた使用人らしき人間たちがなにやら話していた。
「おい聞いたか、大塩殿の所には最近何やら大勢の人間が出入りしているらしいぞ。旦那様が近く事情を聴きに行くらしい。仕事を増やされたと愚痴をこぼしておられた。」
「別に珍しいことでもないだろう。大塩殿は貧窮した民のために蔵書を売って金にしたこともあるのだ。今回もそのようなものなのではないか?」
ほう、大塩という名の者の事らしい。人間は関係もしない他人の話が好きなのだな、と思ったとき、猫はこれまで理解できなかった人間たちの言葉の意味が自分にも分かるようになっていたことに気が付いた。
猫は大層驚き、どうやら自分が今までよりも遙かに賢くなったらしいと考えた。
これはあの妙な水のせいだろうか?
その日以来、猫は賢くなり、人間の事ももっとよく分かるようになったが、生活は今までと変わらなかった。
目星をつけた家に入っては餌をねだる。ついでに賢くなった頭で人間達の話を聞いてみたりした。しばらく人間達から知識を貯めた猫は、どうやら自分は猫又というやつになってしまったのだと結論づけた。
とうとう俺も妖怪の仲間入りか。偉くなったものだ。
その後に猫は一つの屋敷を気に入るようになった。その屋敷は、書物と呼ばれる紙の束が山のように多く積まれている屋敷だった。ここまで多くの書物は他のどの屋敷にもなかったし、主人が自ら出す食べ物もまあ旨い部類に入った。
何より、この屋敷の主人は大層知恵があるらしく、色々なことを客に話していた。客もみすぼらしいのから立派なのまで様々で、彼らの話を横で聞くのが猫の習慣になってしまった。
一週間ほどその屋敷で餌をもらい続けていると、その猫はまるで自分が飼い猫になったかのように使用人に思われているのに気が付いたが、猫は気にせず自分はあくまで客人のつもりでいた。
次の日、猫が主人の側で客人との話を聞いていると、突然客人が猫の方を向いた。
「ご主人、この猫は見たところとても賢いですな。じっと動かず我らの様子をうかがっている。案外何を話しているのかも分かっているのではないですか?」
的を得た意見に猫は非常に驚いたが、主人は全く意に介さず笑った。
「はは、何をおっしゃいます。確かにこの猫は他より多少賢いようですが、人の言葉は分かりませぬよ。猫とはそういうものではないのです。」
「ははは、まったくその通りですな。これはとんだ戯れ言でした。」
二人してしばらく笑って、その客は席を立った。猫は、どうやら俺は帰る時期を作るための出汁にされたらしい、と僅かに髭を動かした。
客が去った後、不意に主人が猫の方を向いた。
「どこから来たのかは知らないが、お前は本当に賢そうな目をしているな。私はお前のその目を気に入っている。お前がいたいだけ、ここにいるといい。」
そう話す主人を猫はとても不思議に思った。
こいつは俺がただの猫だと思っているはずなのにどうして分かるはずのない人間の言葉で話しかけたりするのだろう。
主人は、考え込んだ猫の頭に触れて優しく撫でた。
猫は驚いた。
自分は人間に頭を触られたことなど、かつてなかったのだ。
反射的に逃げ出そうとしたが、数日世話になった人間にそんなことをしては失礼だろうと猫なりに考え、そのまま頭を撫でられていた。
男の指は節くれ立っていて、皮膚も硬くなっている。
その手が頭をさする度に、猫はえも知れぬ暖かなものが胸に広がるのを感じていた。猫はこのとき、他の猫が人間に飼われてやっている気持ちが、ほんの少しだけ分かった。
猫は一日のうちでその屋敷にいる時間がさらに長くなり、やがてそのまま居座った。
屋敷での日々の暮らしに慣れた猫は、暖かい陽射しの下で眠っていた。
その屋敷は、猫が独りだった時に見た、猫を飼っていたどの屋敷よりも小さかったが、そんなことは気にもならなかった。
猫はいつからか、夕闇を走っては人を驚かすということをしなくなった。
猫が飼い猫になってしばらく後、屋敷に来る客人はますます多くなった。
話を聞いてみると、どうも日々の生活の不満を訴えに来ているようであった。
どうやら主人は昔与力であったらしく、不満を持った民衆の相談相手になっているようだ。猫は少々不安になった。というのも、日々来る客が段々貧しい者ばかりになり、話すことも過激になっていたからである。
「大塩様、商人とお役人様が一緒になって私たちの年貢の額をつり上げているのです!ただでさえ今年は飢饉、すでに飢え死にする者も出ています。このままでは村の者は立ちゆきませぬ。」
今日の客はますます酷かった。着ている物はボロボロで臭いがきつく、本人も骨が浮くほど痩せている。飢え死にがどうとか、言っていたことはよく分かったが、猫の目にはこの男こそ今にも死にそうであった。
主人は辛抱強く話を聞いてやり、屋敷の書物を売った金をその男に持たせてやった。
屋敷の大きさに見合うだけの家財や、山のように積まれていたはずの書物は、その頃にはもう殆どなくなっていた。
主人の着ている物も、以前より質素になっていた。
猫は一旦屋敷を出た。出される食べ物が少なくなっていたし、何やら物騒な雰囲気が屋敷全体から漂ってきていたからである。
屋敷を出ると、猫はかつてのように立派な屋敷を訪ねては食べ物をねだってみた。すると、以前と同じように旨い物が出された。
久しぶりの旨い食べ物を咀嚼しながら猫は考えた。
あの屋敷の主人は何故ああも客に金を与えていたのだろう。人間達が使っている金というものは、そこらに落ちていて拾えば増えるという類の物ではない。人に与えると少なくなり、自分が不便になるばかりではないか。いくら気の毒に思っても、自分も不便になってよいのだろうか。
猫は食べ物を平らげると、食べ物を出してくれた人間に愛想を振りまくためににゃあと一声鳴いた。
「いやいや、礼などいいさ、礼など。」
食べ物を出した裕福そうな男の言葉を、猫はまたも不思議に思った。
こいつもだ。人間の言葉を分かるはずもない猫にこうして話しかけるのはいったい何故なのだろう。
猫はしばらく考えたが、答えが出そうにないのであきらめて屋敷から立ち去った。
その夜、大塩の屋敷に猫が戻ってみると大塩と彼の弟子である宇津木という男が言い争っていた。
「蜂起などよしてください。そんなことをしても、共に起つのは食べ物も満足に食べられない農民ばかり。そんな貧弱な集団では一刻と持たずに破れてしまいます。破れれば幕府は貴方を処刑するでしょう。そして貴方が嘆願したことは何もかなわない。こんなことで死んでしまってはまるで無駄ではありませんか。」
猫は蜂起という言葉が一体何に当たるのかしばらく考えたが、まだ知らぬ言葉であって、想像もつかなかった。
大塩は宇都木に話を始めた。
「私が以前、淀川の堤を歩いていると捨子に出くわした。その泣声が実に耳の底にひびくのだ。母親が捨てた子を振り返りながら立ち去りかけたが、やはり赤ん坊の元へ帰り頬ずりをする。そうして詫び言を述べて、泣く泣く立ち去ろうとする。また帰ってくる。何度も繰り返し、ついに意を決して捨てて行ったが、その母親ももう餓えて死にそうな姿であったよ。」
大塩は宇都木の顔を正面から見た。
「お前は赤ん坊の泣き声とお前の心との間に紙一枚を置いている。お前は赤ん坊を見物しているのだ。ただ可哀相だと言いながら・・。私は違う。赤子の泣くのは私の心が泣くのだ。」
猫は大塩の足下に近寄った。やはりこの人間はひどく賢いのだと、猫は思った。
見物するものとは正に俺のことだろう。見物するに耐えかねて何かしようとしている大塩を、俺はさらに見物している。
「おお、お前か。また、戻ってきたのだな。」
猫を見つけた大塩は嬉しそうにその体を撫でた。
撫でられるのは心地よかったが、猫の疑問は居座ったままだった。
こんなに賢い人間なのに、一体全体どうして猫に人間の言葉で話しかけたりするのだ。
猫が次に大塩を見つけたのは翌日の早朝だった。
未だ日も昇らない刻、大塩は大勢の人間に囲まれて、彼らと共にどこかに向かっていた。”救国”という旗をかざして進む大勢の人間の発する異様な雰囲気に飲まれ、猫は遠くから見ているだけだったが、ああこれが蜂起というものかと納得した。
要するに戦のことだったのだ。
手に安価そうな武器を持った大勢の者達が大塩と共に移動するその蜂起は、しかしながらわずか半日ほどで終わった。
猫は、大塩を信じ、頼り、幕府というものに逆らった農民達が殺され、縄で縛られ、連れて行かれるのを見ていた。
朝、彼らを照らした陽が大地に沈む頃には、すべてが終わってしまった。
捕らえられた者達の中に、大塩はいなかった。
猫は今度こそ大塩の屋敷には立ち寄らなくなった。そこはすでに、以前いた人間は誰もいなかったからである。
猫は大塩を探した。
一ヶ月かかって、猫は大塩の元に辿り着いた。動物的な勘と、人間の言葉を解する頭脳が再び大塩を見つけ出すのに役立った。
美吉屋五郎兵衛とかいう名の人間の屋敷に匿われていた大塩は、猫を見てやはり喜んだ。
「お前はやはり賢い猫だな。幕府の者もまだ見つけられない我が身を見つけるのだから。」
そこでは大塩も猫と同様に客人であった。
猫は大塩に撫でられに、この屋敷に毎日通うようになった。
大塩は、もう猫に食べ物を与える人間でもなく、また難しい話を猫にすることもしなかったが、猫はただ大塩に会いに来た。
猫は、あらゆる事に対して見物人だった自分だが、彼との間には”紙一枚”を置いていないのだと感じた。
大塩にとって猫は、匿われている自分を慰めるだけの存在であったのだろう、と猫は思っていた。それでもいっこうにかまわなかった。
通い続けて一週間が経とうかという頃、大塩が死んだ。
居場所が発覚し、大勢の敵意を持った人間達に屋敷が囲まれ、逃げる場所もなく、己の道が立ち行かなくなった大塩は自焼した。
猫は屋敷が燃えるのを外で眺めていた。
炎の熱気が猫に大塩の言葉を思い出させた。
『お前は赤ん坊を見物しているのだ。ただ可哀相だと言いながら・・。私は違う。赤子の泣くのは私の心が泣くのだ。』
屋敷を取り囲んだ者達を指揮していた男に、猫は見覚えがあった。
俺を酒樽に放り込んだ奴じゃないか、と猫は久しく上げていなかった唸り声を出した。
猫が死んだのは、それから二日後のことである。
猫は大塩が死んだ翌日、彼を殺した男の屋敷を頻繁に走り回った。
夕刻を選んでいたので、猫はかつてのように人魂だと騒がれた。特に、大塩の幽霊だ、と誰かが叫んだときには唸り声こそ上げなかったが、我が意を得たりとばかりに喜んだ。
さらに次の日、再び猫が夕闇の中を走っていると、体を熱い固まりが貫いた。
矢であった。
猫は倒れ、走ってきた男に抱き上げられた。
「なんと、人魂と見えたのは猫であったのか。・・・・済まぬ事をしてしまった。」
猫を射たのはあの男だった。
済まぬ、済まぬと繰り返す男を見て、猫はつい、
「貴様などに言われたくはないわ。俺はこれで満足だ!」
と叫んだ。しかし、猫の喋った言葉は男には鳴き声にしか聞こえなかった。
猫は、ああなるほど、人間が猫に話しかけるのはこういう訳だったのだな、と納得した。