プレゼント

作者:猫又

2010/06/11 up


 人生に一度しか経験することのない二十三歳。そのクリスマスイブの一週間前の朝は、雪の予感をはらんだ雲が空一面を支配していた。僕はいつも通り、目覚まし時計の鳴るちょうど五分前に目が覚めて、ベッドの上で上半身だけを起こしながら首をばきばきと不器用に鳴らせた。そうして少しの間冬に特有なあの純粋な空気を身に染み込ませて、それから思い立ったように洗面所にむかった。僕はそこでもしばらくゼンマイが切れたように立ち止まってから、ゆっくりと歯ブラシの上に歯磨き粉をひねり出した。勢いよく歯ブラシを口の中に突っ込んで、いやに冷たくなっている右手をパンツと肌の間にねじ込む。太腿は突然の冷たさに鳥肌を立て、右手は救われたように元の体温を思い出した。そうこうしている内に役立たずの目覚まし時計が駄々をこねた子供のように鳴きだす。僕は仕方なくテレビの上の子供を叩いて黙らせた。

 ━━僕は今日、会社に行く必要はないじゃないか。それはさながら神の啓示のように唐突で神秘的だった。子馬が生きるために立ち上がらなければならないことを悟っているのと同じように、二十三度目のクリスマスイブの一週間前に悟ったのだ。それは一見メタファーのようで、それでいて真理のような響きをもっていた。なぜ今まで気がつかなかったのだろかと不思議に思った。僕が居なくても、会社はきっかり九時に社員が遅刻をしたかどうかの判断をするし、事務の女の子は几帳面にもきっかり十一時に二番煎じのお茶をみんなのデスクまで持っていく。それから僕のデスクの隣に座る真面目で不器用な同僚は昼休みでもきっかり仕事をしているだろうし、上司は僕が空けた穴をすぐに塞ぐべく部下を選ぶだろう。考えれば当然のことだった。僕はそれを知って喉に詰まった異物を取り除くのに似た開放感を得ると同時に、なんとも言えない喪失感を覚えた。

 とりあえずすべきことは、何百回と繰り返してきたネクタイを首に巻きつけるという奇妙な作業を我慢することだった。しかしそれは、今まで経験したことのない類の我慢だった。僕はこれまで何かに耐え忍ぶ人間というのを数多く見てきたが、会社に行くのを我慢する人間なんて見たことも聞いたこともなかった。それはまるでカリカリに焼いたトーストにバターを塗るのを我慢して、マニキュアを塗っているような・・・。

 とりあえず僕は朝食をとることにした。会社に行く行かないに関わらず、それはしてもいいことのように思えた。僕は賞味期限の切れた食パンを一枚トースターの中に放りこみ、ろくに見もせずにスイッチを押した。トースター独特のぶうんという作動音がかすかに響く。僕はトーストが出来上がるまでの間手持ち無沙汰になってしまったので、無意味に携帯を開いた。着信はおろか、メールも届いていなかった。少し大袈裟に携帯をベッドに放り投げてから、思い返してまた携帯を手にとった。それから着信履歴をあさって、上司の名前を探した。しかしその名前は履歴では見つからなかったし、名前そのものもよく思い出せなかった。僕はいつも名字で呼んでいたのだ。それで仕方なく電話帳で探すと、それはすぐに見つかった。最初からそうすれば良かったのだ。

 僕はその名前に、復讐にも似た鉛のような感情を覚えた。すぐにでも寝起き(あるいは寝ている)上司に電話をかけて、怒鳴りつけてやろうかと思った。だが何と言って怒鳴りつければいいのだろう。僕は詰まってしまった。そもそも僕は上司を恨んでいる覚えはないのだし、そんなことをしてもただのヒステリックを演じるだけだ。チーン。小気味のいい電子音が響いた。トーストは焦げているのか焦げる一歩手前なのか判断しかねる有様になっていた。普通なら捨てられてしまう失敗作。しかし僕は焦げたトーストというものが好きなのだ。だから長年使い続けている壊れたトースターは、僕にとってありがたい壊れ方をしたトースターだった。

 黒に限りなく近い茶色をしたトーストには、おしげもなくバターを塗って食べた。それはいささか奇妙な食事だった。僕はトーストを齧りながら、抑えようのない空腹感と憎悪に襲われた。それはトーストを齧るたびに強くなり、トーストを食べ終わる頃には僕はついに遭難した水兵のように飢えていた。今までに経験したことのない飢えだった。

 ピンポーン。あらゆることに似つかわしくない大きな音がした。誰かが僕の部屋の呼び鈴を押したのだ。まったく迷惑なことだ。なぜ今呼び鈴が鳴らなくてはならないのか。それはこげたトーストを食べる前でも、矛盾した飢えを治めてからでも良かったはずだ。

 僕はイライラしながらドアノブに手をかけ、覗き穴に左目をいつもより勢いよく近づけた。

 それはいまいち現状を掴みかねる事態だった。そこには、魚眼レンズのような覗き穴のせいで変に引き伸ばされたトナカイの着ぐるみが立っていた。僕はひどく混乱した。それはもちろん、トナカイの着ぐるみが会社を無断欠勤したヒステリックな男を訪ねる理由が見当もつかなかったからだ。可能性という可能性が思い浮かばなかった。トナカイの着ぐるみがケーキを訪問販売でもしているのだろうか。それにしてもこんな明らかに怪しいセールスがまかり通るようには思えない。居留守をされるか、警察を呼ばれるか、殴られるかのどれかだ。

 僕はドアを開けた。まるで何かが途方もない強制力をもって僕の手を操ったかのように、それはスムーズなドアの開け方であったはずだ。何度も言うが、僕はひどく混乱していたのだ。飢えていたせいもある。そうしてドアは決して開けられるべきではなかったのだ。

 実際に見ても、それはやはりトナカイの着ぐるみだった。茶色と白の布地を粗末につなぎ合わせたものが全身をすっぽりと覆っていた。柔らかい綿が入っていそうなナイロンの角が縫い付けてあり、赤い鼻は今にも取れそうなくらい垂れ下がっていた。僕はその作り物の真黒な瞳(プラスチックだろうか)と見つめ合う格好になっていた。着ぐるみは視界を確保しているのだろうかとのんきに思った。

 トナカイはうんともすんとも言わなかった。僕は発すべき言葉を失って、でくのぼうみたいに閉まろうとするドアをとどめていた。その間にも僕とトナカイをとりかこむ時間は止まり続けた。それはとてつもなく長く感じた。

「あの」と、僕は動揺を顔にはりつけながら言った。少しばかり裏返ったかぼそい声だった。

 トナカイはやはり黙っている。僕の中には遅い恐怖が芽ばえはじめる。脳裏にはしゃべらない鈴というフレーズが浮かんでいた。

 これは何かのイタズラで、誰かが僕のドアの前にトナカイの着ぐるみを立たせて置いて、本人は呼び鈴を押してから安全なところに隠れて、この奇妙なやりとりを笑いを押し殺しながら観察しているのではないかと思った。しかしその馬鹿げた仮説はすぐに破られた。(元からして状況が馬鹿げている)

「あの」と、トナカイの着ぐるみは当然のことのように無表情に言った。あるいはトナカイの着ぐるみの中も無表情だったように思えた。

 ひとまず、僕は少なからず驚くこととなった。それはトナカイの格好をしていると思われる謎が、若い(声の)女だったからに他ならない。それは冬の大気にしっくりとなじむ美しい声だった。

「サンタクロースを探しているんです」と、トナカイ女は矢継ぎ早に言った。それは有無を言わさぬ完全な発音だった。

「はあ」僕は気の抜けたため息とも思えるような声を出した。僕の「あの」は無かったかのようにちぐはぐな会話は進められた。

 サンタクロースを探す。それは理解しがたいことだった。そんなことが見知らぬ男を訪ねる理由になりえるとはどうしても思えない。しかし思考とは裏腹に、僕はサンタクロースを探していると言った人間(あるいはトナカイ)を疑うことが出来なかった。疑うべき理由が疑うための材料にはならなかったのだ。それよりも僕を支配したのは、好奇心だった。彼女は逃げ出したサンタクロースを探しているのか、サンタクロースになりうる人間を探しているのか(だとすると白髭を生やして丸々としたおじいさんなのだろうか?)いまいちはっきりしなかった。そもそもたいていの場合サンタクロースは父親で、探し出す必要はないのだ。

 そうしておかしなことだが、最初からいかれたトナカイの虚言という選択肢は存在しなかった。

「なにか宗教のような勧誘か宣伝でしょうか」僕は言った後に後悔した。もし本当に宗教絡みなら、宗教という単語を持ち出すのはタブーのように思えたからだ。

「サンタクロースを探しているんです」僕の杞憂は打ち消された。トナカイ女は相変わらず無表情に特有の声色をしていた。しかしその響きにはどこか魅力的なところがあった。

 なぜ僕はこんな気がふれたトナカイ女を相手にしているのだろうかと思った。そのままドアを力強く閉めて部屋で一日が過ぎるのを待てば、それは笑える不思議な出来事として友人に語られるはずだ。だが僕の手はしっかりとドアを支えたままだった。

「サンタクロースをお探しでしたら、僕に聞いてもしょうがないですよ」と、僕は言った。

「いいえ、貴方でないとだめなんです」トナカイ女は少しトーンを上げた。

「僕でなければ、とは?」僕は余計に混乱していたと思う。トナカイ女はまた黙ってしまった。いまいち彼女の存在がつかめない。

「私がサンタクロースを探すのと、あなたの存在は同義です」

「はあ、それは・・・どういった、それは比喩として僕がサンタクロースであるということでしょうか?」僕には何がなんだか分からなかった。

「僕は今までサンタクロースになろうと思ったこともありませんし、これからなる予定もありません。もちろん今だって違う」

「いいえ、私はずっと貴方を探していました。やっと見つけたのです」とトナカイ女は言った。

「ずっとって、いつからですか?」と僕は言った。

「ついさっきのことです」トナカイ女はまばたきができない。

 僕は歯車の致命的な欠陥を見る。

「それで、僕になんの用でしょうか?」

「夢の国です」トナカイ女は答えた。

 ユメノクニ・・・。僕はなにか重大な思い違いをしているのではないか。それは実に重大な・・・。

「貴方を迎えにまいりました」トナカイ、トナカイ女、僕のサンタクロース。

「夢の国へは片道切符でなければならない」僕とトナカイ女の声が重なる。

 トナカイ女はその顔を覆うマスクを脱いだ。その下に現れたものは━━トナカイ?

 奇妙に現実感の無い、それでいてリアルなトナカイの顔。僕は叫んだ。何か重大な思い違いをしているのだ。何か。叫び声は出なかった。喉からは何かをこするような音が出ていた。











と  なカ イの角を  切ってくれ。




「それで、亡くなられた高須さんは当日、何の連絡もなく会社を欠勤していたということでよろしいですね?」三十代とも四十代ともとれる中年の警官が苦々しげに言う。

「はい、彼は私のデスクの隣でしたから、出勤していれば必ず気づくはずです。会社のほうにも出勤記録は残っていないと思います。確認してみなければ分かりませんが・・」と眼鏡をかけた背の低い男はおどおどしながら言う。

「それで、彼の勤務態度、または私的なことで最近何か変わった様子は見受けられましたか?」

「ええと、そうですね・・」男は考え込む。警官はこの男からは有益な情報は得られないと感じていた。それはおそらく経験に裏づけされる直感だろう。

「亡くなった高須さんの部屋から十数錠のMDMAが発見されたことは、もうお聞きになりましたか?」警官は男の返事も聞かずに職業病といえる質問を繰り返す。

「はい、驚きはしましたが・・・、なんとなくつじつまが合うようで納得しました」

「と、いいますと」警官は今ごろになって興味をもったような声になる。

「私は麻薬中毒者というのを実際に見たことはありませんが、彼にはなんというか、そういった雰囲気があったように思えます。前から様子はおかしかったんです。突然スイッチが入ったように支離滅裂なことを言い出したり・・。でも、平時はいたって普通なんです。僕はあまり気が強いほうじゃありませんから、そのことに関しては何も言えませんでした。それに僕たちの部署は社内ですべて片付いてしまいますし、彼は仕事も部署内で一時期は成績がトップだったりもしました。そういうこともあって、彼の時々現れる特殊な言動については黙認されているような風でした。それに彼は普段温和ですが、嫌っている人間に対しては攻撃的でしたから・・」男は溜まった汚物を吐き出すように一息に言う。

「ふむ・・。彼は常習的に覚醒剤を使用していた可能性があります。しかし発見された程度の量では命を落とすには通常至りません。我々は事件性も考慮に入れて原因解明に尽力しています」と、警官は畳み掛けるように言う。

「それでは、貴重なお時間をありがとうございました」警官は立ち上がる。

「いえ、私としても・・・、原因が分かればと思います。彼は、その・・良き同僚でしたから」

「そうですね」警官が人ごとのように言う。

「ああ、それと、」と警官は何か思い出す。

「近所の住人が玄関先で倒れている彼を発見したとき、どうやら彼はまだ意識があったようで、トナカイの角がどうとか・・、そればかりを呟いていたそうです。何か暗号のような。お心当たりはありませんか?」

「トナカイの角?」男は怪訝な顔をする。

「ふむ、まあなにはともあれ、司法解剖の結果が出ればなにかしらの情報は得られるでしょう。運がいいのか悪いのか、最近は司法解剖までいくケースは少ないんです。ああ、失礼しました。つまらない話を・・」

「いえ、」と男が言う。

「しかし大変ですな。せっかく休日のクリスマスイブだというのにお仕事ですか」警官が話題を変える。

「ええ、休日だろうとクリスマスだろうと、もちろんそれが一緒になっても働いていないと、いつクビを切られるか分かりませんから」と男が言う。

「失礼ですが、ご結婚は?」

「はい、娘が二人います。上のほうが今年やっと小学校に上がりまして、どうにも値がはるプレゼントをサンタクロースにお願いしているものですから、しっかりした子です」と男が苦笑しながら言う。

「ああ、それはそれは」警官も苦笑いをする。

「娘たちにはできるだけ長く夢を持っていてほしいと思っていまして、私がサンタクロースの格好、妻がトナカイの格好をして娘たちの枕元にプレゼントを置こうということになっていまして、まあ熟睡していて見てもらえなければ、ただの自己満足なんですがね」


 男は少し寂しそうに言う。

(2009年度2月号 掲載作品)