午後四時三十一分

作者:猫又

2010/06/11 up


 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

 もはや、日本固有の美たる大和撫子は絶滅したのか。そう文句を掲げた電脳世界の一室に、三人の男達が集結していた。男達は日頃埋設させている私利私欲を、各々口に出していた。そうしてそれは、普段の彼らからは想像もできないほどに饒舌だった。そこは電子で繋がれた蜘蛛の巣の世界。存在が認知されない暗室だった。

 ―駄目でした。いくら探しても見つかりません。見つかったと思えば、それは巧妙に仕組まれたレプリカです。やっぱり僕たち委員会でどうにかするしかありません。

 委員会のメンバーである柳という男が、そう苦々しく電気信号で発言する。

 委員会。それは大和撫子保存委員会と題された、ひどく奇妙な代物だった。

 ―ああ、そうするしかないかもしれない。もう自然の力ではどうしようもない事態になってしまった。介入するしかないだろう。

 委員会を取り仕切る委員長が言った。

 ―でもどうやってやるんです?彼女たちは非常に優しく、内気で、人見知りです。とても接触できるとは思えない。

 そう疑問を投げかけたのは副委員長たる山吹という男である。

 ―確かにそうだ。我々には大和撫子を目視することさえ至難だろう。だが選択の余地は無い。この日本で微かに生存している大和撫子を積極的に保護していかない限り、大和撫子が歩む道の先には絶滅の結末しかない。彼女らは可憐で純白だ。だが純白ゆえに、今の環境ではすぐに俗世に染まってしまう。これが最後のチャンスだ。もはやこの日本には、老齢な固体が僅かに生存しているだけだ。

 委員長の言葉に、残る二人のメンバーは押し黙る。

 ―それで、作戦の決行は?

 副委員長が覚悟を決めて尋ねる。

 ―明日の午後二時。中野駅北口。目印は撫子の花だ。



 数多の無表情な人間が往来する中野駅の北口に、一人の男が立っていた。大抵の人間はその男を背景の一部のようにして気に留めないが、その男の傍を通り過ぎる者は、その異様な存在感を浴びることになった。いつしかその男の周辺を行く人の群れは、ジェット機の主翼が引き起こす気流のように、不自然なカーブを描いて避けていた。男は実に模範的な中年男性の太り方と禿げ方をしていて、立てばビヤ樽、座ればタライ、歩く姿はドラム缶の揶揄がしっくりとはまっていた。無論ワイシャツの胸ポケットには萎びかけた撫子がさしてあった。

 中年男は遠慮もせずに苛立ちを顔に出していた。しかし彼は、元来穏やかな性格であった。人前で怒りを露わにするなど滅多にないのだ。しかしそんな彼も、この時ばかりは憤慨せずには居られなかった。一つは道往く女性のスカートが極端に短いこと。そうしてもう一つは、委員会のメンバー二人が定刻を二分過ぎても姿を現さないこと。それが理由だった。しかし彼は、なにがなんでも時間を厳守するべきだと主張する人間ではないのだ。それは荘厳たる大和撫子保存委員会の決意を、そのスタンダードの低さを痛感したからに他ならなかった。

 北口の改札を、幼鳥の雄雌鑑定士のような眼差しのそれで選り分けていた中年男の目が、ある若い男のティーシャツをとらえる。その若い男は、誰かと待ち合わせをしているのを周囲に知らせるかのように、辺りを見回しながら歩いていた。若い男が着るティーシャツには、撫子が半端な大きさでプリントされていた。

 ふと、中年男と若い男の目が合った。若い男は、中年男の胸ポケットで体温にあてられ萎れている撫子を認めて、それから中年男の全体像を見て一瞬ハッとしたようなギョッとしたような顔になった。お互いがお互いの存在を確認していたが、かけるべき言葉が見つからず微妙な間が流れた。先に口を開いたのは、若い男のほうだった。

 「あの、あなたが、委員長、ですか?」と、若い男がおずおずと尋ねた。

 「そうです。わたしが委員長です」と中年男が答えた。

 委員長にはその時、子供の頃によく見ていたテレビの、「そうです。わたしが変なおじさんです」というフレーズが頭に浮かんでいた。委員長は自分が一体何を言ったのか一瞬見失って、自分が大和撫子保存委員会の委員長であるという旨を言ったのだと思い直した。

 「あ、はじめまして。僕は柳です」と若い男が言った。

 「ああ、これは、どうも」と言って、委員長は思い出したように名刺をポケットから取り出した。先程までの委員長の怒りは、いざとなったらどこか遠い地に飛んでいったようだ。柳もあわてて名刺を取り出そうとするが急なことで手間取り、委員長が一人名刺を両手で大事そうに掲げたまま待つ格好になった。柳は自分の名刺が見つからないことで焦ったが、仕事でもないのだから名刺など端から持っていないということを思い出した。

 「すみません、今ちょうど名刺を持ち合わせていませんで・・・」

 「ああ、いや、構いませんよ」と委員長は言ったものの、名刺を後生大事そうに持っている手前、とりあえず柳に名刺を渡した。委員長にとってもはや名刺というのは、プライベートにおいても耐え難い職業病を具現化していた。名刺には実に平凡な会社名が書かれていた。柳の記憶にはない会社名だった。

 「ところで、副委員長さんはまだ来ていないのですか?」と柳が聞く。

 「ああ、そういえばそうですな」

 そう言われて、委員長は副委員長が居ないことに対する怒りを思い出した。しかしどうにも怒りの腰が折れてしまったので、特に何も言わないことにした。委員長は安物とも高級品とも判別の難い腕時計を見た。時計の長針は、約束の午後二時を十分ばかり前に通過していた。

 「何かあったのでしょうか」と柳が言った。

 「さあ、何もなければいいのですが。まあとりあえず、もうしばらく待ちましょう」

 委員長はそう言ったものの、そもそも二人は副委員長がどのような人物なのかを知らないのだ。もしかすると、時間を守るというのが急に恥ずかしくなったのか、不自然に指を折って縮こまった。委員長が柳の指差していた辺りを見てみると、なるほど撫子と思われる花を持った男が周囲を見回していた。

 「あの、副委員長の山吹さんですか?」と柳が副委員長とおぼしき男に近寄り、遠慮がちに尋ねた。

 「おっと、これは。あなたは柳さんですか?」と副委員長の山吹は質問を返した。

 「はい、そうです」と柳が答える。

 これで大和撫子保存委員長の全メンバー三人が揃ったことが確認された。副委員長は外見からすると柳よりも年齢が上で、委員長よりも若いように見えた。それは当然のことで、インターネットで密かに息づいていた大和撫子保存委員会の本拠地たるページは、本来大和撫子の未来を憂うある人物が開設したもので、メンバーの募集に食いついた三人が入会を希望して、メンバーとなった。しかし開設者はいつの間にか音信不通となり、残された三人は解散の危機に立ち向かうことになった。しかし三人は委員会の存続を決意し、年功を慮り、委員長、副委員長の役職を設けた。

 「遅れて申し訳ありません。家を出るとき妻に不審がられまして、私が適当な言い訳をしたものですから、それが妻を逆撫でしてしまったようで・・・。言い訳に随分と手間取ってしまいました」と副委員長は言い訳を述べた。無精に伸ばされた髭は、彼の恣意的な性格を表していた。中肉中背の体型も、見方によっては痩せるのも太るのも面倒がっているように見える。

 「いえ、まあ何はともあれ、こうして委員会の全メンバーが集まれたのは何よりです」と委員長が言った。委員長は妻という言葉に何か嫌な思いでもしたのか、複雑な表情をしたがそれも一瞬のことだったため、柳と副委員長はついに気がつくことはなかった。そうして委員長はもう名刺を出そうとはしなかった。


 「さて、それでは早速取り掛かりましょう」と委員長が言った。

 「はい」

 柳と副委員長の声が重なった。

 

 まず委員会が秘密裏に成すべき事は、大和撫子の発見であった。それは最も大事なことであり、同時に最も困難なことだった。そもそも大和撫子に明確な定義は無い。大和撫子は男達の心の中に存在している。まさに哲学に等しい高尚である。

 「まずは総武中央線の警戒と監視をしましょう」と委員長が二人に伝えた。

 総武線の車両内には不特定多数の人間が乗り降りする。それは小学校や中学校の友人のように移り変わっていった。そこであれば、もしやすると大和撫子を発見できるかもしれないという淡い期待があった。そして電車を場に選んだのには、もうひとつ重大な目的があった。それは痴漢の根絶である。日々多くの女性が痴漢の被害にあっているという現実は、彼らにとって耐え難い苦痛だった。大和撫子を保護するうえでも、それは頭を悩ます問題だった。満員電車は痴漢の温床である。女性にとっての敵である痴漢は、委員会にとっても実に許しがたき凶悪な罪悪であった。

 そしてあわよくば、大和撫子を魔の手から救い出して、お近づきになりたいという下心を三人は秘めていた。


 三人の男が、車内に穴をあけるほどに目を光らせながら辺りを隈なく監視し、人ごみを掻き分けながら車両を移動しているのは実に耐え難い光景だった。おそらく通報されなかったのは、彼らの強運のおかげだろう。

 「今のところ、大和撫子も痴漢も見つかりません」と柳が言った。

 「引き続き警戒しましょう」と委員長が指示した。

 「居ました。大和撫子かもしれません、第三車両の進行方向むかって右側の席に座っている女性です。長い黒髪で、清楚な白いワンピースを着ています」と副委員長が静かに二人に近づき、静かに奮起しながら言った。

 「よし、確認しましょう」委員長が第三車両に向かった。その後に柳も続いた。


 「ああ、確かに大和撫子のイメージにぴったりです。しかし本物とは限りません。とりあえず、周囲に危険が迫らないように警戒しましょう」と委員長が言った。

 そうして、大和撫子(暫定)の女性が下車するまでの暫く、委員会の三人は警戒の手を緩めなかった。大和撫子(暫定)の女性はただならぬ気配を察知したのか、電車が駅に到着し、扉が開いた瞬間にすばやく下車し、小走りで去っていった。突然のことに、三人は車内に取り残された。次の駅で電車を降りて引き返したが、既に大和撫子(暫定)の姿はなかった。

 「見失いましたね」柳が残念そうに呟いた。

 「ああ、ですがこれ以上はストーカーだと勘違いされてしまう。頃合いでしょう」と委員長が冷静に言った。彼らは基本的に自己分析が苦手なのだ。

 「それでは、ひとまず中野駅に戻りましょう」と副委員長が言った。

 メンバーの三人はとりあえず手元にある切符の行き先の駅まで戻り、改札を出てから中野行きの切符を購入した。その間も警戒は怠らなかった。

 

 中野駅の北口に戻った三人は、ひとまず食事を済ませることにした。委員長がよく知っている店があると言って、三人はその店に足先をむけた。

 そのとき、委員長の足が止まった。柳と副委員長は、委員長の膠着に数歩の間気づかず、後方に取り残された委員長を不審に思い、その目線の先を見た。

 そこには、恰幅のよい五十代とおぼしき女性が立っていた。女性は服の上からでも分かるほど下腹が出ていて、その顔には怒りが表出した粘土のように張り付いていた。委員長は実に不健康な冷や汗をすばやく皮膚から滲ませていた。それは酸欠のために、しきりに口をぱくつかせることさえできない魚によく似ていた。

 「説明していただきましょう」と、女性が声に無表情を含蓄させて言った。その振動は委員長をひどく震わせた。

 「ああ、いや、これは・・・」委員長はとても思考できる状態ではないように見えた。

 「あなた、会社はどうしました?」女性は静かなる閻魔の声である。

 「ああ、いや、それは・・・」

 「こんなところで何を?」

 「今日は早く会社が終わったから、後輩とこれから、飲みに」と委員長はバツが悪そうに言った。

 「そうですか」と言って、女性は柳と副委員長を半ば睨むように見た。

 「おかしい。さっき電話があって、あなたが二時ごろ中野駅で誰かと待ち合わせをしているようだったと。だから気になってあなたの会社に連絡してみたら、今日は欠勤だと」

 委員長の旗色が悪くなる。

 「それで、一体何を?」

 「それは、大和・・・」と委員長が蚊の鳴くような声で言った。言葉を発するにつれて、それは自分に向けての言葉のように内に引っ込んでいった。

 「またそれですか!一体いつまでそんなことを続けるの!」と女性が声を荒げた。

 「そ、そんなこととはなんだ!俺にとっては重要なことだ!」委員長は毅然とした態度で言った。

 「自分の娘の誕生日だって忘れる父親が、よくそんなことを」女性はやや落ち着きを取り戻したようだった。

 「それは今なんの関係もないだろう」委員長も公衆を意識して普段の声色に戻った。

 「いいえ、あなたは何時もそうです」

 「俺がいつそうだったって言うんだ。具体的に言ってみろ」

 柳と副委員長は気圧されて、でくのぼうのように突っ立っていた。

 「あなたがそうやって自分の理想ばかりを私に押し付けて、まるで家事もしないで、子育てだって私に任せきりで、あなたはのほほんと暮らしていてよかったかもしれないけど、私がどれだけ苦労したか知っているんですか」

 「お、俺だって」と委員長が言った。

 「俺だってなんですか?」

 「あなたのそういう前時代的な考え方が、私には耐えられなかったんです。大和撫子だかなんだか知りませんけど、そんなアニマを私に植えつけて、そのせいで私がどんなに苦労したか。私だって一人の人間です」女性は息をつかせなかった。数秒の間目を伏せている夫の目を見て、それから踵を返して人ごみに紛れていった。その背中は引き止められることを拒んでいるように見えた。

 柳と副委員長には、委員長がまだ苦しい言い訳を考えているように見えた。


 「今日はもう、解散にしよう・・・」精神の上でひどく長く、現実の上で実に短い時間が過ぎて、委員長はやっとの思いでつぶやいた。

 午後四時三十一分の出来事だった。

(2009年度新入生歓迎号 掲載作品)