ENDLESS―終末を彩る果実―

作者:天夜 薄

2011/02/22 up




 その時私は、世界の滅びを感じると共に、一つの言葉を思い出し、明日リンゴを植えることができないかもしれない、と危惧した。本来ならば、私は植える側の人間だった。しかし今、私に突き付けられた現実は、手元にはリンゴの種は存在しないということだ。あるものと言えば、宇宙空間かと見紛うような漆黒の空間と、それを感じさせない無数の純白の漂流物、目が痛くなるほどの金色の地面、それから群青に染められた、王様の座るような金縁の椅子が一脚。それ以外にものと言えるものは、見当たらない。

 椅子に座っているのは、女だ。見るからに厄介な女だった。ヒラヒラのフリルの付いたピンクのドレスを纏い、真珠のブレスレットや十字架のネックレスなど、付けられるアクセサリーは悉く着けていた。私の脳が正常であるとすれば、脳が正常かすら怪しい、とまで思えるような格好だった。彼女は自らを『女神』と呼称した。平和的な思考をもってすれば、痴呆の始まったオバサン、と見た方が遥かに相応だ。

 唐突に、『女神』は言う。

「少しお話でもしましょうか」

 胸部を圧迫する、無駄に巨大な二つの肉塊を、強調するようにブルブル震わせながら喋るその姿に、私は寒気すら覚えた。

 私は『女神』の目をじっと見据える。それに気づいてにっこりと笑う『女神』は不気味で、不可思議で、不快だ。その微笑みは私の感覚を狂わせる。怒りにも悲しみにも似た、どうにもならない感情が私を満たす。私は奥歯を噛みしめ、心の中で呟いた。

 あなたのせいなのよ、と。




 半年前、残暑が盛りを迎えた八月の中旬のことだ。一人の女が日本のテレビ局を占拠し、こう宣言した。

「私は『女神』です。突然ですが、地球滅亡させますね。一年後に。嫌なら、それまでに人柱一人立てて、私に献上してくださいな。選り好みはしますけど」

 もしこれが、高校生が学期最初の自己紹介で発言した内容ならば、クラス中の顰蹙を買うだけで事は収まったかもしれない。しかし、このグローバル化した社会において、こういった発言を押し留めておくのは、不可能に近かった。すぐに世界中に知れ渡り、様々な議論が交わされることとなった。

 初めは誰も信じることはなく、ネット上の嘲笑を買ったくらいだった。テレビ局を占拠して行われた程の事態であったので、危機意識は芽生えたのだが、自らの不利益は極力信じないのが、人間というものだ。しばらくは表立った混乱は生まれなかった。

 だが、立て続けに起きた事件は、それを許さなかった。主要国家の中枢都市が、悉く爆破されたのだ。世界の壊滅を防ぐためにも、人柱探しは加熱の一途を辿らざるをえなかった。

 私たちが人柱探しの実情を実感することが出来たのは、毎日決まって放送される、『人柱志願者数』の推移だけだった。日毎に増えていくそれは、真に奇妙なもので、人間の正義感ではなく、世界に対する絶望を、如実に表していた。

 『女神』は、実際には手を加えることなく、人間の『生』というものを、根本から否定していった。


 普通の女子高生だった私は、これらの事件とはあまり関わることはなかった。お金持ちのボンボンというよりは凡々というのがまさに的確であると、恐らく自他共に認めるだろうと自覚できる程の人間だ。都会人でも田舎人でもない中途半端さだ。関係性の実存を信じる方が異常だった。

 私たちの学校に人柱探しの強制審査の手が及んだのは――今でもよく覚えている――夏がようやく身を潜め、丁度いい秋の涼しさが現れ始めた、十月の初め頃だった。紅葉が、私の不安をいい感じに和らげてくれたので、地球滅亡の実感など明後日の方向に飛んでいき、この平凡がずっと続くものだと、信じることが出来た。

 それはあくまで、『信じることが出来た』だけだった。

 人柱を見つける手法は単純で、人柱候補者と役人が並び、役人が「この人を人柱として捧げます」と言うだけ。なんと手軽であろう、これなら自宅でも簡単にできる。惜しくも人柱に選ばれてしまった場合、空から光の柱が伸びてくるらしい。信じがたいが、女神が自分で言ったそうなので恐らく本当だろう。どうやら女神は漫画好きのようだ。

 しかし、こんなことで見つかれば、役人以外誰も苦労はしないだろう、と内心私は笑っていた。自分の番が来ても、この状況がフィクションであるかのように、ノンフィクションを忘れていた。詰まる所、現実味はなかった。

 しかし、なんと女神は、私を人柱として認めてしまった。不幸にも程がある。リアリティが明後日から帰還した。ノンフィクションが記憶の底から湧き出てきた。平凡な主人公が突然特異な力を持って、というのは、漫画ではよくあることだが、いくら漫画でもこんな絶体絶命の状況でバトンを託すことなど、到底あり得ない。現実味は、私の舌には苦すぎた。

 『女神』は意外と話の分かる奴で、私が「一週間の猶予をください」と言うと、「いいよ、一週間と言わず、一ヶ月ぐらい先でも、大丈夫よ。どうせ先は長いし」と快諾した。そもそもの期日が一年以内であるから、そんなことは問題ではないのだろう。光の柱はやがて消えていった。



 その次の日から、私の引き籠り生活は始まる。家族は私を気遣って、私を自由にさせてくれた。友達は頻繁に家にやってきた。だけど、愛想笑いをするだけで、決して本当の笑いは出来なかった。どうしても受け入れたくない現実と、何としても受け入れたい現実があるのに、前者を選ばなくてはならない恐怖。そして、永遠に後者であり続けるその微笑ましい姿を見ると、どうにも吐き気が治まらなくなるのだ。私は、自身の人柱選出以来、怖くてテレビを見ていなかったのだが、聞くところによると、テレビ局はその話題で持ちきりだそうだ。嗚咽が止まらなくなった。私は、自分が何なのか分からなくなった。自分と他者は、圧倒的な力で引かれた境界線によって、隔てられていた。そのことがどうしようもなく許せなくて、私は友人や家族が去ると決まって、こう言うのだ。

「くそったれ」



 約束の日が来る。私はまだ夜が明けない内に外に出る。母さんが切ってくれたリンゴを添えた、遺書まがいの置手紙を枕元において――どうせ後で、テレビにでも晒されるに違いない――心の色を表したような空の下に身を晒す。街灯の明かりを身に受けながら、近くの公園を通り抜ける。住宅街を過ぎ、商店街を通り過ぎ、やがて私の通う高校に辿り着く。他に適当な場所が見つからなかったのだ。私は飼い犬を呼ぶように、両手を二回、パン、パン、と鳴らす。こうすれば、来てくれるような気がしたのだ。意外にも、空から光の柱が伸びてきた。降りてくる間、儚げにそれを見つめる。地面に達すると、それは眩い光の粒を散らしながら、私の目の前に静止した。私は、すがる思いで身に着けてきた、母さんからの贈り物である十字架のネックレスをギュッと握りしめながら、その光に身を寄せる。体がフワッと、宙に浮く。制御が利かない。体が、脳を無視する。やがて意識でさえ、私の手元から離れていった。

 人間では、無くなった、気がした。


 次に意識が私の手元に帰ってきた時、初めに見た景色は、真っ黒な空間で、真っ白な物体で、褐色の女だった。初めは夢だと思った。だから頬を抓った。痛かった。それが純然たるリアリティだった。


「少しお話でもしましょうよ」

 『女神』はもう一度、微笑みながら言う。肉塊を強調する姿は変わらない。その笑顔からは優しさというよりも慈しみが感じられてなおさら不快だったが、別に拒否する理由は無かったので、一度だけ小さく頷いた。

「お話って、お互いに喋ることよ。黙ってちゃ駄目じゃない」

 『女神』は優しく、咎めるように言ったが、私は尚、口を開かなかった。彼女は、やれやれといった感じで、一方的に話し始める。

「あなたを選んだ理由、わかるかな」

 私は素直に、二回だけ首を横に振った。

「あなたが世界を破滅させるピースとなるからよ」

 『女神』が言い終えるより先に、私は彼女の目を見、わからない、と言うように、瞬きを頻繁に繰り返し、彼女はそれを見て、楽しそうに続けた。

「わからなくていいのよ、だって未来のことだもの。あなたはこの先、どう足掻いても、地球を滅亡させるキーを回さざるを得なくなる。決まっているのよ」

 諦めなさい、と念を押すように、『女神』は深く溜息を吐く。

「あなたはこのくそったれの地球のために死ななくてはならない。だから私が処刑するの。表向きには人柱にされたかわいそうな少女、裏では世界を救うヒロインなのよ、そう思えば格好よくないかな」

 私は少し俯いた。自分の呼吸音を聞き、柔い肌を感じ、地に足が付いていることを確認した。そうしないと、自分が消えてしまいそうな気がしたのだ。

「死に方は選ばせてあげる。安楽死を始め、窒息死、出血多量死、焼死、溺死、それに圧死まである。あなたの人生だもの、私が決めたら、後味悪いじゃない」

 奇妙なセリフだ。これじゃ、私が死を望んでいるみたいじゃないか。いや、もしかしたら望まなくてはならないのかもしれない。地球からすれば、正しい選択がどちらかは一目瞭然だ。ただ、決めるのは私だ。そう、『人間である私』なのだ。地球でも、『女神』でもない。

 私は『女神』に背を向け、出口の方に向かう。死に方を選ぶボタンも、その近くにあった。私がそこに向かっているのを察して、彼女が私に声をかける。

「今すぐ死ぬなら、そのボタンを押せばいいよ。そうじゃないなら、そこを出て、右に曲がって、一番奥の部屋があなたの部屋だから、そこで休むといいよ。猶予はあるわ」

 私は一瞬立ち止まった。少し躊躇ってから、私は死に方を選ぶボタンの方に足を運ぶ。数え切れない程のボタンが、気持ち悪いほど群がっている。これはどうなるんだろう、あれはどうなるんだろう、と考えながら目的のボタンを探す。やがて、それは見つかった。

 『圧死』のボタン。

 それを直視する。どうなるかの予想はついた。問題はどうするかだった。早計でも英断でも、どうなろうが私の抱く感情が後悔であるには変わりない。どうするか、なのだ。

 後悔はないことを確認してから、『女神』の方を向く。彼女は私が見たのに気付き、微笑む。どうしたの、と言うように、首を傾げる。

 私は、まだ人間でいたい。

「くそったれ」

 『圧死』のボタンがある部分を、掌で思い切り叩く。そして、勢いよく走り始める。

 女神がうろたえる声が聞こえる。無視して走る。いくつもの巨大な鉄球が私を襲い、私が避けて地面に叩き付けられたそれは、瞬く間に空間を破壊していった。予想通りだった。飛び散ったいくつもの岩塊もまた、私を潰しにかかってくる。それを避けながら、走る。右は行き止まりであることがわかっていたので、左に走る。人間でいたいから、走る。止まったら、そこで人間であるどころか、何もかも終わってしまうような気がした。だから、走る。人間は辞めたくない。まだ人間でいたい――。



 前を見ずに走り続けた。息は切れ、足は石のように重く、目はやや焦点を失いかけていた。自分が何処に着いたのかは分からなかった。不意に、足元で水の跳ねる音がした。驚いて立ち止まり、膝に手を付きながら、足元を見つめる。辺り一面水溜りだった。ゆっくりと顔を上げると、水ではないものが見えた。木が一本生えている。よくわからないまま、すがるようにそれに近づく。奇妙な感じだったが、近づかずにはいれないという不思議な感覚が、私の五感を刺激した。のらりくらりとそれに近づく。やがて見えたのは、見覚えのある赤い果実。その昔、神々の神話の中で、アダムとイブが口にしたとされる、禁断の果実。私はあまりリンゴが好きではなかったのだが、今見ているそれは信じられないほど魅力的だった。私は瞬く間に虜になった。これを食べれば、人間に戻れるような、そんな感じがした。

 いくつもある内の、最も赤々とした一個を手に取る。エキゾチックな方が私は好みだ。ウットリとした表情を浮かべながら、齧る。シャリ、という滑らかな音が心地いい。美味しい、と心の底から、思った。

 無心で、そのリンゴを食べ尽くした。芯でさえも食べ尽くした。食べ終えると、突発的な目眩が、私を襲った。重心を失って、仰向けに水辺に倒れ込む。意識が薄れる。薄弱な意識の中で、これは確かに人間の痛みだ、人間の証だ、と思った。嬉しかった。




 目を覚ます。少しの間、目が焦点を失ったが、やがてはっきりとした視覚が、戻った。何回か瞬きをしてみる。確かにこの薄汚れた天井は、私の部屋のものだ。手を開閉してみたり、足を動かしてみたりする。確かに、生きている、という実感がある。

 起き上がって、辺りを見回してみる。確かに私の部屋だ。正確に確認したわけではないが、ものの位置や、部屋の感じなどは、『女神』に会いに行く前と、殆ど変わらない。時計が無機質に、時を刻む音がする。母さんが朝食を作る音も聞こえてくる。外からは雀の鳴き声がする。確かに、いつもの日常、という実感がある。

 私は戻ってきたのだろうか。母さんに後で話してみようか、と思ったが、鼻で笑われそうな気がしたので、頭から消した。ベッドの脇のテーブルに、昨日食べ残したリンゴが、そのまま置いてあった。それを手にとって、口に運んだ。不味い。現実味とは、こんな味に違いない。

 髪を整えて、眠そうに眼を擦りながら、ドアを開く。いつもの日常が、はっきりとした形で存在していた。いや、私がそう錯覚しただけで、実際は特異な空間に身を置いているのかもしれない。でも、そんなことも、もう関係のないことなのかもしれない。

 洗面所に行って、顔を洗う。鏡を見て、平凡な顔が今日も平凡であることを確認する。顔を拭いた後、洗面所の窓ガラスから外を見る。強烈な日差しを伴った太陽が、私の目を突き刺す。今日も元気そうだ。

「くそったれ」

 とりあえず、今日もリンゴの木を植えることが出来るだろうか。それが第一の課題だ。

(2009年度6月号及び2010年度新入生歓迎号 掲載作品)